映画観客とは何者か:メディアと社会主体の近現代史

映画観客とは何者か:メディアと社会主体の近現代史
 映画観客は、二〇世紀初めからおよそ一〇〇年間にわたる日本の近現代史の中で、社会主体として行為し想像されてきた。本書では、映画観客と「民衆」「国民」「東亜民族」「大衆」「市民」との結びつきを分析することにより、メディアと社会主体の関係史を描き出している。
 「民衆」「国民」「東亜民族」「大衆」「市民」は、歴史的文脈の中で生み出されてきたカテゴリーであり、アイデンティティであり、社会主体である。これらの言葉はそれぞれ、ある時代に頻繁に使われた一方で、別の時代にはあまり使われないということがあった。映画観客との関わりに限っておおよその傾向を言えば、「民衆」は一九一〇年代から二〇年代にかけて、「国民」は三〇年代から二〇一〇年代の現在に至るまで、「東亜民族」は一九三〇年代後半から四〇年代前半まで、「大衆」は二〇年代終わりから六〇年代まで、「市民」は六〇年代から二〇一〇年代の今日に至るまでに流通した言葉だった。見てのとおり、この歴史は単線的ではなく、複層的である。しかも、それぞれの時代には資本主義、総力戦、帝国主義、民主主義、冷戦体制、リスク社会、新自由主義、ポストフォーディズム、コントロール社会といった、歴史に大きく作用してきた数々の問題系が絡んでいる。こうした中にあって「民衆」「国民」「東亜民族」「大衆」「市民」といった言葉は、いずれも辞書的に定義された固定的で普遍的な意味として使用されたわけではなく、むしろそれぞれが多様な立場の言説によって言及され意味づけられながらある程度のずれや矛盾を含みもち、なおかつ歴史的文脈とともにそれぞれの意味合いを変容させてきた。また、それらの概念は、他者を表象する言葉として使用される場合もあれば、自己を定義する言葉としても使用されてきたし、さらには単に言葉として言及されるだけでなく、行為として遂行されてきた側面もある。したがって、「民衆」「国民」「東亜民族」「大衆」「市民」はいずれも、単なるステレオタイプ的な集団カテゴリーでもなければ首尾一貫したアイデンティティでもなく、歴史的な文脈の中で生成した、ある程度流動的で、多様で、複雑で、矛盾した意味合いを持ち合わせた社会主体だと言える。映画観客は、社会から完全に切り離された存在ではなく、むしろそうした歴史的文脈にある社会主体として捉えることができるのである。
 要するに、本書は、映画観客を、そうした歴史に規定されると同時に歴史を動かす社会主体として捉えることで、映画観客の、さらにはより大きくメディアと社会主体の、重層的な近現代史のダイナミズムを実証的かつ分析的に浮かび上がらせる試みである。構成としては本書は、「民衆」「国民」「東亜民族」「大衆」「市民」を各テーマに全5部(全8章)、680ページから成っている。

著者

藤木秀朗

出版社

名古屋大学出版会

ISBN

978-4-8158-0938-6

出版された

2019

専門

人文科学

テーマ

芸術と文化
メディア

地方

インター・アジア
日本